吉敷地域の文化

肥中街道とは

2016/4/30

「歴史の道肥中(ひじゅう)街道(かいどう)」

南北朝時代の1300年代なかば大内弘世は周防と長門を統一し山口に拠点を定めました。「肥中街道」はこの大内氏の時代、領国の西半分を横断する道として整備されました。山口の中心部道場門前安部橋(山口市白石地区)と大内氏の海上支配の要港肥中港(下関市豊北町神田肥中地区)とを結ぶ海外交易や、長門国の豊田氏ほか武士軍団の牽制など政治的な意味を持った街道でありました。肥中港の先は日本海、響灘、玄界灘、対馬、朝鮮半島とつながりその位置は海の道の拠点でありました。

 

この街道ルートは、道場門前―湯田―中村―佐畑―赤田―寺領―畑―大峠(山口市)―綾木(美祢市美東町)―岩永(美祢市秋芳町)―河原(美祢市)―大嶺(美祢市)―麦小野(美祢市)―麻生(美祢市)―殿敷(下関市豊田町)―八道(下関市豊田町)―田耕(下関市豊北町)滝部―(下関市豊北町)―肥中港(下関市豊北町)です。

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